君の声、その選択肢

正月早々こんな話題もどうかと思うが、ずっと胸につかえていたので表に出してしまいたい。


昨年の神田沙也加さんの訃報はショックだった。
アナと雪の女王(特に2)は一番好きなディズニー映画。劇場で観た帰り道で即サントラをDLしたくらい。
配信が始まってからは毎晩再生していて、「寝落ち動画」がアナ雪という日々が2か月くらい続いた。
大好きなプリンセスに声を吹き込んだ女優さんがもういないことを、心が痛む亡くなり方をしたことを、大好きな映画を見るたびに考えてしまうんだろうか。とても複雑な思いだ。


誰かが自死を選ぶと、「どうして(そんなことをしたんだ)」とか「それだけはいけないことだ」と言う人がわらわら湧いてくる。
私は「そんなことは言わないで、どうかもう責めないで」と想う。
どうして? 遠くへ逝きたくて、逝ったんだよ。
いけないこと? そんなにいけないことなの?


今日はその選択肢の話をしたい。


私はいわゆるアダルトサバイバーで、普通の人よりはちょっと生きづらい人生を送っている。
7歳頃から希死念慮を抱えていた。生きづらさを押し殺しながら大人になり、20歳でうつ病になって、日常生活もままならなくなり、大学をやめた。
社会復帰には5年かかった。
うつは寛解したけど不眠症は治らなくて、今でも薬でいろんなことをコントロールしながら生きている。
死のうと思ったことは何度もある。死のうとはしないけど死にたいと思ったことはもっとある。
頭では生きねばと思っているにもかかわらず、体が勝手に死のうとしたことも何度もある。
とても辛かった。
死んじゃだめだと自分に言い聞かせるとき、そんな弱いことではいけないと自分で自分を責め立てるとき、とても辛かった。
ぐしゃぐしゃに踏みつぶされるような毎日だった。「ダメだ」って自分に言い聞かせるほどにつらくて、前にも進めず後にも引けず、そういう日々が永遠に続くような気がしていた。


あるとき、もういい、と想うことにした。

前向きに死ぬことを選択肢に入れようと決めた。
なんでもかんでも「いざとなったら死ねばいいや」と開き直ることにした。
それでいろんなことをやってみた。「いざとなったら死ねばいいし、失敗しても恥かいても人に嫌われても別にいいや、なんかやってみよう。ダメだったら死のう」って考えることにした。
勢いで転職してみたり、それまでだったら我慢していた嫌なことを嫌だって言ってみたり。
意外と死ぬほどの失敗には見舞われなかった。むしろ生きるのが楽になった。


楽になった今でも、私は「いざとなったら死ねばいい」と想っている。
その考え方が人生の護符みたいなもので、選択肢があると想えることが救いなんだ。


だから、自死=悪、と叫ばないで欲しい。生きづらい人に「そんなことを望むなんてダメだ」と刷り込まないで欲しい。
死んでしまいたいほど辛かったんだね、そうか。とただただ受け止めて欲しい。と、そんなふうに想う。

もちろん、悔しい気持ちはある。死なないで欲しかった。
死んでしまうくらいなら、死んだつもりでつらいこと全部捨てたり、全部やめたり、逃げ出したりして欲しかった。
捨てていいんだよ、やめていいんだよ、逃げていいんだよって、生きてるうちに伝えられたらよかったのに。
誰かを見送るたび、いつもそんなことを想う。

 

生きづらさを抱えて、あの境界線に近づくようなこともある、友人たちへ。
逝く前にどうか教えて欲しい。
止めやしないから。
ただ「なんかやるだけやってみなよ」って言わせてよ。
仕事辞めてみるとか、移住してみるとか、親と縁を切ってみるとかさ。何やったっていい。手伝えることがあれば手伝うよ。
やってみてだめなら、止めやしないよ。
私もそうするから。考えられるだけ、全部やるだけやってから、それから逝くからね。

 


神田さんの訃報があった12/18、翌日の12/19にCoccoさんが「君の声」という曲をTwitterで発表した。
「誰も誰をも責めてはいけない」というコメントが添えられていた。
12/29にCOUNTDOWN JAPANでも歌われたそうだ。
「あちら側」との境界線に何度も立ったことのある人ならではのやさしさが溢れた曲だと思う。
是非聴いてみて欲しい。


https://twitter.com/CoccoOfficialT/status/1472557435454095365?s=20

 君がいない でも 君の声がしてる

 君の声が 笑って
 君の声が 歌って
 君の声が そこら中に 弾けて溢れて

 心配いらない お水は あげておく
 心配いらない あの手紙は 捨てておく
 心配いらない ちゃんと 憶えてるから
 心配いらない もう泣かなくてもいい

 君がいない でも 君の声がしてる